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2009年 08月 28日
2007年 03月 19日
PASMOを買って二日。 当初は自分が使っている東急バスで使えなかったりして、 「まだまだ駄目だなぁ。」 などと思ってましたが、やっぱり便利だなと思うようになってきました。 今日は六本木でバイトで、帰りはそこから学芸大学まで電車でした。 今までは学芸大学~渋谷間の定期を持っていたりしたので、改札出る時に毎回不便でした。 しかし、東京メトロでも東急でもPASMOは使えるために一枚で済む。 これは便利です。 それを使っている時にふとこの漂っているお金について考えて見ました。 ここから先は僕が今までに色んな人から聞いた話や読んだものをつぎはぎして書いているので、僕が金融や経済についてすべて分かって書いているわけではない事を了承して下さい。 間違っていたらご指摘を。 テーマは 「金が具体的なものから離れていくとどうなっていくのか」 「バブル崩壊はなぜ起こったか」 です。 僕の答え: 「バブル崩壊はフロー化したお金が増えたから起きた」 です。 原始の経済というのは、 「そのお魚と僕のお肉を交換しましょ」 というような交換経済でした。 そこには完全な弱肉強食があり、捕れない釣れないものは腹を空かせるしかないシンプルな経済でした。 そこに貨幣が生まれ、だんだんと複雑な経済に変容していきます。 まず、お金というものがどうなりたっているのか。 これは「信頼」から成り立っています。 僕達が使っているお金は日銀が発行しているお金だからこそ普段使えるのであって、例えば僕が勝手に紙幣を作ったとしても一般には使えません。 だからこそ、日銀の信頼、国の信頼は非常に大切なのです。 国の信頼が失墜すれば、その国のお金は国際上で地位を失墜させる事になります。 有価証券も資金なので、ほぼ同じ事が言えます。 PASMOも発行している会社に信頼があるからみんなが使えるわけです。 で、金が出来て「賃借」という概念が生まれると交換経済のようなシンプル&具体的な経済からは離れ「資金がマイナスでも物を買う事が出来る」ようになります。 ようは一気に時代を現代にしてクレジットカードで考えると分かりやすいです。 「今月はお金がなから来月引き落としになるカードで物を買おう」 です。 これは資金が足りなくても物が手に入るという交換経済では成り立たなかった現象です。 ここで起こる「マイナスのお金」。 これは実質の世界では浮いているようなお金になるわけです。 今の世の中ではこの浮いているお金が莫大にあります。 日本の赤字国債。 日本の信頼で借りている負債。 物質ではなく「浮いています」。 この浮いているお金が増えれば増える程、バブル崩壊に近づきます。 実際持っている国の資金とどんどんかけ離れていくからです。 バブル崩壊前には様々な現象が起きます(不動産の高騰など)。 そして、崩壊直前に起こるのは 「芸術作品の高騰」 だそうです。 なぜかというと 「芸術作品ほど価値が分からなく変動するものはないから」。 要はアート市場で動いているお金は浮いているお金なのです。 ご飯を食べなくても生きていけるけど、芸術は無くても生きていける。 バブル時にはその芸術作品に対して、名誉や権威を手に入れるために世界で余ったお金たちがつぎ込まれます。 著名な例がバブル崩壊直前に起きた 「安田火災(当時)がゴッホの『ひまわり』を58億円で落札する」 という現象です。 最近、印象派の巨匠ルノワールが描いた2点1組の絵画『花籠を持つ女』と『婦人習作』 が、東京でのオークションで3億1000万円で落札、国内2番目の高値と新聞に報道されました。 一位が『ひまわり』ですから、桁違いな額だという事が分かると思います。 その直後にバブルは崩壊しました。 ちょっと話が飛びますが、1968年に起きた三億円事件で盗まれたお金を所有していた東京芝浦電気(現:東芝)はどうなったか知ってますでしょうか? 答えは 「外国の再保険をかけていたため、三億円下りた」 です。 つまり不利益は出なかったのです。 翌日には当初使う予定だったボーナスもきちんと支払われたそうです。 今の経済というのは、こういったマイナスも基本計算の中に入れるようにシステム化されています。 コンビニでは万引きされてもその分も会社全体のシステムの中では計算済みなのです。 こういったマイナスのお金 =浮いたお金 もこの現代の経済の中ではシステムの中に組み込まれているのです。 ただ、そのシステムの範囲を超えてお金がフローし出すとシステムが崩壊して経済が破綻します。 これがバブル崩壊の一連の流れなのではないでしょうか? なんか、本読んでコピったような文章ですが、一応考えて文章書きました。 で、懸念はこの先なのですが、現在、全世界的にバブル崩壊前と同じように不動産が高騰し、アート市場にお金が莫大に回っているという事です。 この事に対して日経新聞で、 「バブル期とは経済状況が違うので、同じ事にならない」 的な事が書いてありました。 経済格差が大きくなり、富裕層の人たちが芸術品を買っているだけだから問題無い的な。 この辺の論理が経済にうとい僕にはよく分かりません。 誰か教えて。 (ちなみに日本の経済格差って先進国の中ではまだまだ大した事ありません) お金の事を考えてたら金と神の関係とか、格差とか、贈与経済とか色々考えてしまいましたが、長くなるので今日はこれまで。 間違い多々あると思いますので、教えて頂ければ幸いです。 #
by wato8282
| 2007-03-19 23:55
| パンセ
2007年 03月 13日
2003年のキリンアートアワードで物議を醸したK.K氏による「ワラッテイイトモ、」がgoogle videoに。 http://d.hatena.ne.jp/riow89/20070307/p1 出た当時 「mixiやってるの?」 って言われるばりに、 「ワラッテイイトモ、見た?」 と僕の周りでは大きな話題となってました。 ほんの少しの期間だけど、あまり世に出なかった作品なのでネット上や公開されていた映画館で見た人からの噂で一気に有名になった。 特にクリエイター間では有名な作品だろう。 「「ワラッテイイトモ、」というのは、TV のバラエティ番組「笑っていいとも!」(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/iitomo/)を主な映像素材にした MAD ビデオのようなものだ。のようなものというか、手法自体は MAD ビデオそのものなのだが、通常の MAD ビデオと違って一応一本筋の通った主観(編集者の視点)が存在し、それが連続しているために一個の作品のようなものとしてその映像は出来上がっている。自前でかなりの量の素材を用意している点も「ふつうの作品」としては当然だが、「MAD としては」珍しいといえば珍しいのかもしれない。とはいえこのあたりの混合率はそのまま編集したひとの、編集をした時点での個性の表現として理解するのが自然だしふつうだろう。作品はジャンルではなく、強いていえばタイトルに帰結していくものだから、「ワラッテイイトモ、」の理解は基本的にはそれを「ワラッテイイトモ、」として見ることではじまり終わる。きっかけはきっかけとして、現物は現物として、ああなるほど、そういうかんじかあと、楽しく見ることができた。」 確かにこれが物議をかもし出すのは分かる。 初めは笑っていいともをサンプリングしたVJ作品みたいな感じかなぁと思ったけど、それだけでは全く終わらない。 その中に監督であるK.k氏が登場し出し、K.K氏の立ち位置、存在が映像の中なのかどこなのか分からなくなってくる。 テレビ画面の外にいる「僕」 監督であり映像の編集者である「K.K」 笑っていいともの司会「タモリ」 この三者の位置がかなり曖昧になるように編集されていて、だからこそK.K氏の存在が生々しく感じ、不気味で怖い。 さらに初めに書いたVJ的要素でも相当面白い。 たぶん、そこんじょそこらの駄目VJを束にしても、K.K氏の編集センスには勝てないと思う。 宇川さんとかこの人の事好きなんだろうなぁ。 サンプリング文化については過去に何度か書いた事ある気がするけど、「ワラッテイイトモ、」サンプリング文化への日本からの回答と言ってもいいかもしれない。 つなぎ方に僕は日本のゲーム世代、漫画世代特有の物を感じた。 一見の価値ありです。 [サンプリングに関してのエントリー] #
by wato8282
| 2007-03-13 05:30
| 映像
2007年 03月 04日
黒と白のツートーンの鳥たち。 毎年冬になるとこの公園に訪れる。 規則はあるのかないのか、絶妙な間隔で池の中を泳いで行く。 テーブルの上で路上で、人と話す時に自然と取る間隔。 国民によって違うけど、これは鳥の種類によっても違うのでしょうか? ここの池には僕が「ボス鳥」と呼んでいる恐竜のような風貌を備えた鳥が三羽いる。 この鳥達は遠くにいても、アイコンタクトもせずに同時に鳴き出す。 いくら遠くにいようとも。 僕たち人間は目の前を落ちていく葉っぱさえ、どこに落ちていくか正確に把握する事は出来ない事が複雑系の理論の中で判明しています。 しかしこの鳥達はもしかしたら、水面を輝きながらさざめいている波の流れを正確に捉え、意思伝達をはかり同時に鳴いているかもしれない。 それともやはりガイアの胎動を感じ、地球全体として生き、遠くの鳥の鳴くタイミングをつかんでいるのでしょうか? いやいや、人間は特別に個人の意識で生きているように見えているけど、それも実は火の鳥のような超越した存在が動かしているのかも。。 今、地球上には1.1兆バレルの石油が埋蔵していると言います。 この石油は今のペースで行くとあと38年間で消費されてしまうと言われている。 それも地球の意思なのでしょうか? それとも人間の意思? #
by wato8282
| 2007-03-04 16:25
| 日記
2007年 02月 23日
「中平は1938年、東京生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業。新左翼系雑誌『現代の眼』編集者を経て、東松照明、森山大道らとの親交を通じて写真家へ転身します。68年には写真同人誌『プロヴォーク』創刊。60年代後半から70年代にかけて社会が激動する時代に、評論活動と並行して「アレ・ブレ・ボケ」の手法を用いたモノクロームの作品を多数発表します。その後、主観性や芸術性を排除した匿名性を持った表現、「植物図鑑」のような写真を目指し転向していく中で、自己批判に伴い過去の作品ネガやプリントを焼却してしまいます。77年、アルコールの大量摂取により倒れて記憶の一部を失い失語症を患いながらも、翌年療養を兼ねた沖縄旅行を契機に撮影行為を再開します。ゆるやかに回復しながら精力的に写真を撮り続け、現在では次世代の若手写真家たちに多大なリスペクトを受ける存在となっています。映画は2000年~2002年くらいまでの中平の日常と沖縄旅行でのエピソードを中心にまとめられています。」 こんな映画を見ました。 70年代、アバンギャルドな写真の数々で新旋風を起こした中平卓馬のドキュメンタリー。 中平氏は倒れて以来、言葉も記憶もなくしそれでも写真を撮り続ける。 映画の中で語る言葉は時系列がなく、アル中のおじさんのような語り口調なんですが、森山大道、アラーキーもいる沖縄シンポジウムでは、ほかのカメラマンがたじたじになるほど沖縄と記憶と創造について語っていた。 よく、写真はその人独自のフィルターをかけて世界を捉える行為だと言われますが、この人の場合もうフィルターさえないのではないかと思いました。 前にバスキアの映画を見た時 にも思いましたが、何かを創作している人は世界の見え方が違うと感じています。 自分が映像を作っていた人間なのでよく分かりますが、僕の場合は特に視覚の世界がちょっと違って見えていたように思います。 PCの中で映像を編集しているように、目の前の世界を編集している感覚と言えばいいのでしょうか。 ただ、それは僕という主体がいて、外という世界を編集しているのですが、中平氏はその編集した世界の中に住んでいるように感じました。 それはこのような言葉の中にも現れていると思います。 「写真は創造ではなく、記憶でもなく、ドキュメントであると、私は考える。撮影行為とは、抽象的なことではなく、常に具体的だ。単純なことを観念化して難しいものにしようとするのではなく、カメラという媒体を通して私が出会った現実がここにある。」(『原点復帰 - 横浜』より) #
by wato8282
| 2007-02-23 16:17
| 映画
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