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2006年 08月 24日
「しきり」の文化論
最近、本のレビューをあまりにも書いていなかったけど、これは非常に名著だったのできちんと書いておく。 今年前半期で読んだ中で一番の良書だったかもしれない。 著者の柏木氏はデザイン史専攻の武蔵野美術大教授。 前にも知のmix時代へで書いたけどデザインをされている方の現代批評は非常にすぐれていると思う。デザインというのは世の中を編集する事であるから、現代の動きに敏感だ。 しかも芸術家などに比べて企業と仕事をされる事が多いので、アウトプットのフィードバックが得られる環境にいる。 世間とのコミュニケーションもしているのだ。 元々、日本人的しきりというものに興味があり、しかも相方が「敷居学」というBLOGを書いている事もあり手にとってみた。 この本は、「しきり」というものに注目して世の中を描いている本だ。 「しきり」に注目するのも非常にデザインをやってる方の視点だなぁと思う。 何点か引用すると 「日本の住まいにおけるしきりが、頑強に自然環境からの遮断によって人工性を主張するのではなく、自然環境を取り込むようなしきりとなったのは、日本の自然環境が人間にとってさほど厳しいものではなかったからなのかもしれない。鳥や虫の声、雨や風の音をけして排除するのではなく、むしろ好ましいと思う感覚も、そうしたしきり方と結びついているように思える。」 西洋の壁によるしきりに対し、柱と襖・障子などによるしきりで「移動可能」なしきりを旧来の日本は持っていた。 頑なに環境をしきるのではなく、曖昧なままのしきりを作る。 それによって、プライベートへの感覚も西洋によるものと違ってくる。 個人がしきられていないからこそ、隣の部屋で聞こえてくる内密な話などはあまり耳に入れないようにしたりなどして、「世間」や「公」というものが出来る。 イギリスなどのバスや電車では普通にごみが散乱している。 日本では今、若者の他者不在に批判が出ているが公の場所の清潔さは他に類を見ないであろう。 これは、しきりの曖昧な居住空間に住んでいたからこその文化だと思う。 一神教の生まれた中東、一神教が根強い西洋に比べ、日本には自然宗教とも言うべき宗教観が存在する。 フランス人は蝉やコオロギの音色を聞き分ける事が出来ないが、日本人はあたり前のように子供の頃から虫の音を聞き分ける事が出来る。 これは居住の曖昧さによって、自然と人間の生活を完璧に遮断するのでなく、自然と付き合い生活を送っていた日本人ならではあるようにも感じる。 「わたしたちは、すべてのものを「みんなのもの」にしてしまう事はなかなか出来ない。そのような社会システムはきわめて成り立ちにくいのである。(中略)年金をはじめ、さまざまな共同組合的な共有が行われている。さまざまなものを共有しようとしたソヴィエトをはじめとする社会主義が崩壊したのは、官僚主義化した集団社会が、その外部の資本主義的システムのグローバル化に対応できなくなってしまったことが大きい。また、国家権力を私物化し独裁化する傾向になりがちだった事も大きい。」 僕たちは「わたし」というものを作りそれを保護しようとする。 しかし一方で「みんなのもの」を作り共有し、集団の壁の中で守られたいという気持ちもある。 社会主義国家の横行した、二次大戦後は国の力が弱まり、人々の中に「何かの集団に守られたい」という気持ちが非常に強かったのではないか。 そのため、すべてを共有し集団の中に身を置きたいという気持ちが全世界的に強まったように感じる。 日本においても、労働組合が力を強めたのもこの時代であり、会社というものへの依存が高まったのもこの時代である。 そして、その共有の時代は21世紀に入り急速に形を変えつつあるように感じる。 そして続く 「(前略)テレビが家庭の中に複数持ち込まれ、個人化するのはずっと後になってからだ。少なくとも、ラジオでもテレビも、家族が共有し、家族間のコミュニケーションのきっかけにはなっていたはずだ。それが個人化することで、共有の体験は希薄化していった。」 僕の生まれた時代にはすでにテレビは家庭に何台かある状態であった。 近所のお金持ちの家にテレビを見に行って、、、という時代は生きてこなかった。 メディアを他人と共有する事によるコミュニケーション。 これが僕が書きたい事なんだが、このコミュニケーション方式は今まさに変わりつつある。 当初はあまり流行らなかったのだが実はネットというものは、パソコンが開発された当初よりあったようだ。 しかし、その時代の人にとって「ネット上で人とコミュニケーションするなんて」とこれが浸透していくとは夢にも思わなかったようだ。 しかし、思ってみれば電話が出てきた頃も「人と顔を合わせないでコミュニケーションとるなんて」ときっと思われたはずであろう。 コミュニケーションというものは「個人の共有化」だと個人的に思っている。 自分の考えている事を相手にも理解してもらう。 自分だけ所有していた「知識」を他人とも共有する事だ。 この「個人の共有化」により集団が形成されていく。 上に書いてある事とつながるのだが、自分が守られたいと感じると「個人の共有化」が進む。 つまり、自分を守りたいと思わない人間などいないから、コミュニケーションというものは必ずこの世界で消滅する事なく、進化し続けるのだ。 現代はこの「個人の共有化」がネット上で行われている。 ネットの回遊性が今話題になっているのも宿命的だ。全体で見れば人とつながっていく事を人は拒否する事が出来ない。 メディアの変化によっても「しきり」は変化していく。 携帯を電車の中で見続け、その人は「電車の中にいる」のではなく「メールの相手と話している」状態になるのだ。 ネットによって、人の空間認識が変化したのだ。 この本は主に建築の歴史から発生し、さまざまなしきりを論じている。 アイデンティティ、個と公、バーチャル化された個人、他人との境界がさまざまな所で議論されている昨今だからこそ、今読んで非常にすっきり頭に入った。
by wato8282
| 2006-08-24 23:45
| 本
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